保育園時代の私はすごく幸せでした。
友達も一人居て色々な人とも今と違って積極的にコミュニケーションを取れたのですごく明るい子供でした。
小学校で初めに辛かったことは仲のよかった友達と別のクラスになってしまったことでした。その友達とは小中含めて一緒のクラスになることは一度もありませんでした。その友達は私の通った小中学校の先生が両親だったので今になって思うと私は嫌われていたのかもしれません。
友達と別れたことで私は孤独になりました。それが一番初めの挫折だと思います。
次に辛かったことは二年生の時にうんこを漏らしてしまったことです。当時学年の人気者グループが人がトイレでうんこをしている所を開けるイタズラが流行っていました。それで開けられてしまった私はうんこを漏らしてしまいました。
次に覚えているのは6年生の時に組体操があったのですがその組体操のグループ分けで別のクラスの子と一緒になったのですが扇の練習をしている時に手を繋がないといけないのですがその子気持ち悪いから触るなと言われてしまいます。それで手を繋ぐことができなくなり先生にちゃんとしろと怒られたことを覚えています。私はその子とは一緒のクラスになったこともなくあまり面識がなかったのですがそこまで嫌われていたのがとてもショックでした。次の練習から私は参加することができなくなり仮病を使って練習を休むようになりました。これが1番のトラウマで今でも風呂に入っているとき寝るときふとした時に思い出して息がしづらくなってしまうぐらい辛い出来事でした。
小学6年生の時には修学旅行があったのですが私は京都に行きました。1グループ4人なのですが友達の居ない私は仲のいい2人組+仲のいい5人組の溢れた1人+私1人の4人組で組むことになります。この修学旅行は楽しかったです。定番の修学旅行の夜に好きな人を言い合う事もあって私も言いました。
中学校入学が近づいて不安になった私は母に特殊学級(特別支援学級?)に入れないか相談したのですが母はお前は普通の子だから無理と断れてしまいました。 実際その時点では病院に行ってないし当然診断もされていなくて療育手帳ももちろんなかったので入れないのは当たり前です。
そして中学校に入学します。
中学校では私の通っていた小学校ともう一つ別の小学校の子供が通うことになります。
私の入ったクラスはもう一つの小学校の子が多いクラスでした。
知らない人が増えたことで私はより挙動不審になりそれによりからかわれてしまいます。
そしてそのころからアトピーが悪化してフケが大量に出てきてしまいます。それにより更にイジメられるようになってしまいます。この時主に別の小学校の5人からいじめられてしまいます。一番悲しかったのは誰がバラしたのかわかりませんが修学旅行の時に好きな人を言ったのですがそれを好きな人も含めたみんなの前でバラされてしまったことでした。
そして一年生の夏休みに入ります。一年生の夏休みには職場学習があるのですが私は近所のゴルフ連中に行きました。この学習は出席番号順に3人ずつなので私をいじめていた人達とは運よく一緒になることがなく行くことが出来ました。そして夏休みが終わって登校日になるのですが私は行きたくなくて家の近くの公園に逃げました。夜になっても帰らないので当然家族が警察を呼んで捜索されるのですが家の近くの公園なのですぐに発見されます。そこで母が不登校になることを認めてくれることになりました。その時は将来のことから目をそらすというよりは何も考えていなかったです。
不登校を続けていると不登校の子が集う場所の紹介をされました。何故なのかわからないのですが私はそこに通う気になって通い始めました。そこでは場所の利用者スタッフのおかげで徐々に馴染んでいくことができ次第に楽しく通うことができました。しかし時々新しい子が入ってくるのですがその時入ってきた子が私をイジメていた5人の内の1人でした。スタッフに同じ学校に通っているということで紹介されてしまいます。その子は私のことを覚えていると言いましたが私は覚えていたのですが正直に言い出せず覚えていないと言いました。それからは徐々に仲良くなっていくことになります。その時点では私は高校なんかもちろん無理だと考えていたのですがその子と利用者の1人と私の3人でとても少人数の高校に一緒に通うことになります。不登校の私は当然学力もなかったのですがその高校は0点を取らなければ入れる言われた学校でした。しかも私ともう一人は推薦入学することができました。残りの一人も無事合格することができました。
高校に入学することになったのですが知り合い2人が居ることで浮くことがなく楽しく通えることができました。
クラスは1学年1クラスで人数も約20人だったので私には通いやすい環境でした。3年生になり就職を探すことになるのですが2つだけ受けて両方落ちました。そこから2年生の情報処理の職業訓練校に入ることになります
職業訓練校に入学したのですが元々興味がある分野だったこともあり二年があっという間に感じるほど楽しく通うことができました。資格は日商簿記3級を訓練中に取得でき卒業しばらくしてから基本情報技術者を取得することができました。卒業の1年前ほどから就職活動に入るのですがリーマンショックと地震の影響での世間は不況になり私には厳しい就職活動になっていきます。20社ほど受けたのですが全部失敗してしまいます。
就職できなかった人向けに半年間だけ国から補助金をもらいながら県内の会社で働くという制度があったのですがそれで県内の公園の清掃管理をしている会社で働くことになります。その会社には初めから本採用することはできないと言われていたのですが他には当てがなくその会社で半年間雇ってもらえました。
清掃会社に入りました。主な仕事は草刈をした後の草をかき集め軽トラに載せ捨てにいったり公園にあるバラの手入れなどです。夏場はとても暑く池の掃除があったのですがそれは倒れそうになるぐらい辛かったです。辛い作業はいくつかありましたが社員は優しくしてくれ半年間楽しく働けました。
半年が過ぎてやめることになりその後派遣で紹介してもらった会社で1月働くことになります。
その会社ではスーパーのレジの開発をしており私はテスターとして雇われたのですが開発が少し遅れているのか現段階ではテストすることはないとのことでした。そこで会社の人に出退勤表を作るように言われたのですが作り方がわからないと言ったらエクセルの表出勤時間退勤時間をつければいいだけじゃんと愛想をつかされたのを覚えています。そして私にできる仕事はなく座っているだけの時間を送ることになります。それなのになぜか夜の11時まで残業することになります。派遣会社に泣きながら電話して辞めたいというのですが残るように説得されます。その後ウィルスが混入したり会社の人がパソコンを電車に落としたりしてより遅れることになり一ヶ月ほとんどテスト作業はすることなく終わることになります。辞める時にお世話になりましたと声をかけた時に1人の社員以外にガン無視されたのがとても辛かったのを覚えています。
次にスーパーの鮮魚コーナーのアルバイトで働くことになります。
時々くる本部の部長がすこしパワハラ気質で主に被害にあっていたのは主任だったのですが私は怯えながら働いていたのを覚えています。辛かったのは歓迎会でオナニーしてるかどうかをみんなの前で言わされたのと一味を1瓶入れた焼酎を飲まされたことです。このスーパーは3カ月ほどでやめてしまいました。この頃から悪口を言われているような被害妄想の幻聴が始まりました。
次に新聞配達の仕事を始めます。
配達する前にチラシ入れをし配達に出発します。私が配達していたのは200部ほどでした。
休みが休刊日しかなく月1回休刊日がない月は0回だったのと新しく増えて減る配達先を覚えるのは辛かったですが配達中は1人で気楽に作業ができるのでこの仕事は私にとても向いていました。
この仕事は1年ほど続いたのですが次の塗装と溶接の工場のアルバイトを見つけたことでやめてしまうのですがこの工場のアルバイトをたった一日でやめてしまいます。新聞配達をやめたことが後から考えると失敗でした。
工場のアルバイトをやめてしまった理由は被害妄想の幻聴で嫌われているような気がしてしまったからです。それと少し山奥にあるのですが帰り道がまっくら原付通っていたのですがよく見えなくて怖ったのも理由かもしれません。
面接に行くのが怖くなり自殺しようと考え家の近くのマンションに行ったのですが自殺する勇気がなく飛び降りることができませんでした。そして完全に引きこもることになります。
chatGPTに句読点をつけて数字の表記ズレを直してもらおうとしたのですが上手くいかなかったのでそのままです読みづらかったらごめんなさい。
0 件のコメント:
コメントを投稿